aisatsu。
僕はブ男である、という事をまず書かせてもらいたい。
自分がブ男であるという事を自分が認めることはとても困難であるし、なかなか出来ることではない。がしかし、この顔に産まれて30年が経った。その経験値が何よりも雄弁に僕がブ男であるということを語ってくれる。
目鼻立ちのくっきりとした、いかにも"二枚目"な顔面を持ち合わせていたなら違う未来がここにあったのかも知れない。
しかしあくまでそれは「if」ストーリーであるし、自分が自分である以上、こればかりは想像の域を出ない。「もしもの世界」は僕の時間軸とはいつだって平行線で、交わることは無い。
先刻のことである。
街は雨に濡れていた。数日前にメディアが強く報道していた「台風が直撃」した日よりももっと激しい雨が降り、今日外に出るということは、イコール必ず濡れるという状況に置かれてしまうだろうというほどに、ひたすらに雨天であった。
仕事の関係上、毎日洗濯物が出る。多い日は1日に4、5回は洗濯機を回す。
今日は2回であったが、それでも大した量である。
そしてこの雨天。「洗濯物」と「雨」というワードから導き出されるのは「コインランドリー」というワードだろう。
その時も僕は大量の洗濯物を持ち、コインランドリーへ向かった。
そのコインランドリーはこじんまりとした場所で、横にはコンビニエンスストアになりきれない昔ながらの商店があり、道路を挟んだ向かい側には中学校がある。
主に学生が使うのであろうバス停がすぐ側にあり、その時は5,6人の中学生の男女がバス、あるいは保護者の迎えの車を待っているらしかった。
中学生とはいえ、女性である。(この際男子はどうでもよい)
冒頭に書いたとおり僕は自分がブ男であるということを理解しているため、そのコインランドリーに洗濯物を運ぶ際に目が合うことになるだろうその女子中学生らの目線、視線を痛みを抱えながら受け止めることになるだろうな、と想像した。
珍しいことではない。そうやって生きてきたし、誰が悪いわけでもない。僕自身その日の就寝時にはそんなことはきっと忘れているだろうし、だから「別に良い」のだ。
そうやって構えていないと僕の精神力はきっとずっと前に崩壊してしまっていただろうから。
「こんにちはっ!!」
快活な、朗らかな声が聴こえた。
そこに居た、友だちと楽しそうに話している女子中学生が発したものである。
僕は思わず振り返った。その挨拶はまるで知り合いの大人に会ったときのような、そんなニュアンスが感じられたからだ。しかし背後には誰もいない。
女子中学生は確実に僕に向けて挨拶の言葉を発したのだ。
不思議で仕方がなかった。同時に、なんとも言えない感情が胸にこみ上げてくる。
僕は情けないことに、「あ、こんちは…」と小さく応えることしか出来なかった。そして、「だからブ男なのだ」と理解した。
「ブ男」だと言うことを受け入れるということは、「そんなの関係ねぇ」という境地にまで達せねばならない。この時の女子中学生の挨拶に、同じテンションで「こんにちは!」と返せていたなら。それはブ男だとかイケメンだとか、そういうものを超越している。それは「人と人との繋がり」であるからだ。
僕は心のなかで赤面した。
挨拶というのは誰にでもできる対話である。
「こんにちは」というたった5文字の単語を互いに言うだけで良い。それだけでお互いの存在を認めていることに繋がるのだ。
あの女子中学生はそんな当たり前なことをすっかりやさぐれてしまった僕に教えてくれた。それが親の教育でも学校教育でも、どちらでも良い。どちらにせよ素晴らしい。
学生生活の中で嫌というほど刷り込まれた「挨拶の大切さ」だが、それはやはり身を持って「大切だ!」と思い至らない限りはその大切さに気付け無い。
挨拶をするのに照れや、その他思想はいらない。
シンプルに、愚直にでも。
朝であれば「おはよう」と言い、夜になれば「こんばんは」と言えば良いのである。
それが出来ると出来ないとでは、違う。
そしてそれは、出来たほうが、きっと良い。
そんなことを思った梅雨のある日でありました。