iKKYU。
今日はiKKYUというアーティストについて書きたい。
BIOGRAPHY.
iKKYUは京都に産まれた。
当時の天皇の落とし子として産まれた説が有力だが、これは定かではない。
6歳の頃にZOGAI-SYUKAN(像外集鑑)の元に入門し、 SYUKEN(周建)と命名される。
周建の詩の才能はすぐに開花し、 13歳で1st Sg.「長門春草」、15歳には2nd Sg.「春衣宿花」をリリース。
ちなみに、「春衣宿花(しゅんいしゅっか)」の意訳はこうだ。
花の香りのもとで、たのしみをつくした一時の思いにふける。
あっという間に散った百花の情。
家に帰って寝ころんでみたものの、夢かうつつか、 まだ瞼に消えず、枕もとにかけられた衣から、その香りがただよってくる。
一時の喜びと、それが失われてしまった後のどうしようもない無常感。
エモーショナルかつ、時代の最先端を捉えたその独特の切り口が話題となり、一部のコアなファンを獲得する。
17歳となったSYUKENはKENO-SOI(謙翁宗為)の元に移籍し、名をSOJUN(宗純)と改名した。
しかしその4年後に師であるKENO-SOIが死去し、ひどく落ち込み、それは自殺未遂をするにも及んだ。
その翌年、SOJUNが25歳の時である。
SOJUNはkaso-sodon(華叟宗曇)に入門し、ある公安を聞かされる。
(公安とは、SATORI(悟り)という名の言わば「プロ」を名乗ることが出来る称号を得るための指南書のようなもの。1700程もあると言われている。)
その公安の内容はこうだ。
洞山(とうざん)という坊さんが、長い旅の末、ようよう雲門禅師の
所にたどり着き、入門を乞うた時のと。
雲門に「どこから来たのか」と問われて、洞山は「査渡(さと)より」と
答えた。すると「昨夏はどこで過ごしたか」と重ねて問われ、
「湖南の報慈(ほうず)です」と答えた。更に「そこを出立したのは
いつか」と問われて「8月25日」と答えた。すると、雲門は
「汝に三頓の棒を放(ゆる)す」 と。
「一頓」は20発なので「三頓」で 60発。「棒で殴ってやりたい
ところだが、今日はこらえておいてやろう」と 痛烈な言葉を
投げ掛けられたのだ。
正直に答えたのに「棒で殴られる」とはいったいどういうことか。
洞山は、何がなんだか、さっぱりわからない。一晩苦しみ悩み
考えても解けない。そこで翌日、また雲門の所へ行き、
「私のどこが間違っていたのでしょうか」と問うと、雲門は、
「(禅の盛んな)江西湖南を廻りながら、この無駄飯喰いが!」と
大喝した。そこで洞山は大悟した。
洞山は何故殴られなければならなかったのか。
そしてなぜ無駄飯食いと言われて悟ることが出来たのか。
この公安にSOJUNは長い年月悩むことになる。
そんなある時、ストリートミュージシャンであるViwa-Hoshi(琵琶法師)から「祇王と仏御前」というトラックを聴かせてもらい、感銘し、一晩号泣した後にあるアンサーソングをリリースする。
それが
「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
というリリックである。
意訳すると、「一休みして、さぁここから。煩悩を捨て、無我の世界へ。」という感じだろうか。
この大胆なリリックが師であるkaso-sodon(華叟宗曇)の胸を打ち、「一休み」というワードから「iKKYU(一休)」という名を授けられた。
そこから数年後iKKYUは悟りを開き、どこのレコード会社にも縛られない風狂(フリー)になり、詩や書画、狂歌を多く発表するようなマルチな才能を開花させる。
その破天荒でロックな生き様は関係各所に多大な影響を及ぼしたと言われている。
一時は天皇候補にノミネートもされたという。
後期に設立したTERA of iKKYU(一休寺)は民衆や、天皇にも親しまれた。
88歳でマラリアに侵され死去。死に際には「死にとうない」というラストリリックを綴っている。
Episode.
iKKYUはTONCHIという新たなジャンルを開拓した祖である。
有名なエピソードに「この橋渡るべからず」というものがある。
橋を渡るなという御触れに対し、「端(はし)を渡らなければいいのだろう」
と言い放ち、堂々と橋を渡ったという話だ。
橋と端。その韻を踏んだ軽快な発想は、当時の世間を大いに賑わせた。
いやごめんなさいここまで書いて何をしてるんだろう感が襲ってきたのでここまでにしておきます。笑
なんだこれ。