OMOIDE IN MY HEAD & KOKURA CITY。
専門学校が入ってたビルが無くなっている…在学中に学校が引っ越ししたから居たのは最初の1年くらいだけど、ええ…
— mscr (@syozopanda) 2016年8月7日
あ、引っ越した先のビルも無くなっている。知らぬ間に思い出の場所が消えていた…
— mscr (@syozopanda) 2016年8月7日
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音楽の専門学校に通っていた頃、僕は北九州の小倉北区に住んでいた。
長崎の片田舎から出て来て初めて見た小倉の街は、そこら中にいろんなお店や施設があり、本当になんでも揃っていて、「都会」という言葉の意味を身をもって体感した初めての街だった。
高校卒業後のモラトリアム期間に原付の免許を取ったものの、肝心の原付を経済的理由で買うことが出来ず、移動は専ら自転車…それも1万前後の安いママチャリだった。
時には盗まれもしたし、パンクだって何回もした。それでも僕はそいつに頼るしか無くて、あくせくと小倉の街を移動したものだった。
親の脛を思いっきり齧りながら。
学校の先生に安く仕入れてもらったメモリが700MBくらいの、曲の書き出しに1時間は余裕でかかるPower Mac G4(OS Xのtigerだったなぁ)を日々弄りながら。
僕が通っていた専門学校は超少人数制だったから横の繋がりはそんなに広くなかったけれど、その分密な関係を持つ事が出来た。
「しょーちゃんしょーちゃん」と、とても可愛がってくれた先生や、「はやっしー(僕のこと)は何でも出来るけ腹立つっちゃ」とよくわからない事を言う可愛い先輩や、「林さん、僕に曲作ってくださいよww」と無茶ぶりしてくる男の子や。
小倉の街はとても広くて、そしてちょっぴり不穏で怖いところもあったけれど、今でも住んでいたあの街の風景を昨日のことのように思い出せるし、ふとした時に遊びに行きたくなるのだ。
たった3年間しか住んでいなかったけれど、濃い思い出が詰まった場所である。
19歳から21歳までの僕は確かにその街にいて、呼吸をし、暮らしていたのだ。
だけど、すっかり変わってしまった景色があって。
あの頃とは状況がすっかり変わってしまった人々がいて。
いなくなってしまった人もいて。
時間の流れは時に厳しく胸をえぐりもするけれど、「思い出補正」でその傷口を無傷のように取り繕う。
小倉に住んでいた日々の中で、既に忘れている事も多くあるだろうし、もう一生思い出せない事もあるかもしれない。
「変わっていくものもあるけど、変わらないものもあるんだよ」とかいう言葉は嫌いで、嘘だと思ってる。歳を重ねる毎に思いや記憶は変わってしまうものだから。
でも、「変わらないといいな」という思いは持っていて。
何が言いたいのかというと。
過去を振り返ることは楽しくもあり、辛くもあるということ。
でもたまにそうすることで自分の新しい気持ちを知れるということ。
涼しくなったら、ふらりと遊びに行こうかなぁ。