ボリューム。
僕は高校時代にバイトを2つした経験がある。
ひとつは、年末年始に年賀状を専用の自転車の荷台に詰め込み、エッサホイサと寒空の下ペダルを漕いでぬくぬくとことつに入り込み三が日の団欒を楽しんでいるであろう家庭のポストへ行き場のない怒りとともに年賀状を押し込んでいく「年賀状配達」のバイトだ。
自分が住む地域と近い場所を担当に充ててくれはするものの、地区のブロックが少し変わるだけでも、一気に未知の世界である。
僕は配達をしていて、不思議に感じた。
こんな近くにこんな家があり、飼い犬や猫がおり、それぞれの暮らしをしているのだなぁと、思わずには居られなかったからだ。
同じ県、同じ市、同じ地区に住んでいるのに、こんなにも知らない。
その不思議な感覚は日毎に深みを増し、今では三軒隣に住む人間よりも、遠くどこかの県に住む人間の事の方が詳しかったりする。インターネットが与えたグローバルな距離感は、「じぶんはひとりではない」という安心感を与えると同時に、「だから別にここでなくてもいい」という地盤のゆらぎをもたらしたような気もする。
その場にしっかりと根を張るのが少し億劫なのだ。頭の中のどこか隅っこでは「いつでも自由に羽ばたける」様にしている気がする。
それが良いことなのか悪いことなのかは、未だ結論を出せないのだけれど。
もうひとつは、「市民プールの監視員」である。
主には学生、たまに子連れで来ている人妻、水泳ガチ勢のあんちゃんや、シンプルにただのジジイ。
夏休みの市民プールはそんな人間でごった返している。
燦々と照り付ける灼熱の熱線をふんだんに浴び、それに負けじと必死に水遊びに興じている浮ついた人心を「あかんで!!」と窘める仕事である。
殆どはただ立っているだけであり、たまに、定期的にやってくる休憩時間にはしゃいで飛び込もうとする餓鬼を叱るくらいの、簡単なお仕事である。
もちろん、初勤務前には人命救助のレクチャーを消防署で受けたり、3m程ある飛び込みプールの底まで素潜りが出来るか、等の指導はある。
しかし所詮は僕も17歳。餓鬼である。お金をもらっているのでプロ意識は持っているが、いかんせん経験値が足りない。戸愚呂弟を前にした浦飯幽助の如く「自分はまだ死なない」と無条件に思っている馬鹿であり、阿呆である。
当時の僕は市民プールの敷地内に設置された音だけはやたら響く屋外用の音質もクソも無いようなスピーカーから流れるUSENに耳を傾けていた。
スライダー後に放り出される小さいプールの側で聴いたストレイテナーの「WHITE ROOM BLACK STAR」という曲の事をよく覚えている。ホリエアツシ特有の情感のあるボーカルが、片田舎の市民プールにこだましていた。その光景は異様で、なんでこんなにかっこいい音楽がこんな所で流れているんだろうと思った。
(未だにアルバムには収録されていないが、名曲である。)
思えば、あの瞬間こそが僕が初めて経験した夏フェスの感覚かもしれない。
炎天下の下聴く音楽。本人らがそこにいなくても、高音が割れ聴くに堪えない音質だったとしても、外で、それもあんなにも大きな音で、音楽を聴いたことなんて無かったから。
だから小学生が禁止されているのにケラケラと笑いながら流れるプールに飛び込もうが、水泳ガチ勢のレーンにジジイが誤って割り込んでいようが、きっとその時の僕には関係が無いことであった。阿呆である。馬鹿である。
あの時の小学生は、今頃20歳を越えているのだろうか。
そのふたつのバイトは学校が公認しているバイトであった。というか、そのふたつしか公認されていなかった。特別な家庭事情を除けば、だけど。
郵便物配達のバイトも、プールの監視員のバイトも学校の許可が必要で、許可を得るには日頃の生活態度云々が必要とされた。懐かしい。
そうして得たお金は、音楽機材に消えていった。
当時中村一義に衝撃を受け「宅録」というものを知り、自分ひとりで全てを演奏するという(今の自分の音楽スタイルの原点でもある)事をやり始めた。
初めて多重録音した時、興奮してその音源を何度も何度も聴いた。貰い物の安いキーボードに内蔵されているドラム音源で手打ちしたドラムはリズムが狂いまくっていたし、その時はハムバッカーもシングルコイルもなにも理解できていないエレキは訳の分からない歪みを生み出していたし、ルートさえ押さえていればいいんだろうとしか思っていなかったベースは無駄に音量がデカかった。
でも、それでも良かった。楽しかった。あの時の感動や興奮がなければ、きっと今こうして音楽を創り続けてはいなかっただろうと思う。
なんていうといっぱしのミュージシャン(笑)のようでこっ恥ずかしいけれど、実際そうなのだからしょうがない。
そうして購入したものの中に、MDウォークマンがある。VictorのXM-C31という機種である。
なぜそれにしたのかは覚えていない。きっと懐事情の兼ね合いもあったのだろう。
これも画期的であった。通学中、就寝時…昼夜問わずに音楽が傍にある事に喜びを感じていた。よくお気に入りの音楽だけを詰め込んだ「マイ・ベスト」的なMDを作ったりしていたものだ。
今ではMDなんて使うことは皆無だけれど、その時の思い出が強く、200枚近くあるMDは未だに捨てることが出来ない。
僕はいつも音量をMAXにしていた。
まるで外界からの情報を遮断するように、耳から得られる音情報で脳を満たしたかった。
高校卒業後に住むことになる福岡県小倉北区に夏休み明けに実家から戻る高速バスの中で、前に座っていたおばさんに「音がうるさいから音量を下げてください」と言われたことを覚えている。その時は「なんだこのクソババア」と思っていたけれど、今思えば大層迷惑だったに違いない。時を超えて、謝りたい。ババア、ごめん。
やがてMDが読み込みエラーを多発するようになり、そのまま僕はiPod Shuffleを経てiPod、という内蔵メモリ型プレーヤーに切り替えていくのだけれど、そこでもやはり音量はいつもMAXだった。(ババアの一件以来、バス等の公共機関に乗る時は下げるようになったけどw)
今ではハッキリ禁止されている自転車走行中のイヤホンも余裕でしていたし、そこでも音量はMAXだった。どんな時でも、MAXで聴いてこそ音楽だと思っていたのだ。
将来耳が聞こえなくなってもいいとどこかで思っていた。未来音楽が聴こえなくなるより、今音楽を聴くことを重視していた。
音量MAXへの依存症ピーク時には、ZAZEN BOYSの「The Drifting/I Don’t Wanna Be With You」という楽曲で聴ける吉田一郎の冷徹なベースプレイに号泣し、Daft Punkの「ALIVE 2007」というライブアルバムを聴いて「この音の中で死にたい」という迷言を唱えた。
80GBのiPodはみるみるうちに容量が一杯になった。
今は160GBを買い直し、それをカーオーディオに繋いでいる。
そしてここ数年で、音量をMAXにすることが無くなった。
ヘッドホン、イヤホンで聴くことが減ったというのもあるし、たまに聴いても音量がデカいと聴き疲れしてしまい、長時間聴けなくなってしまったのだ。
これを老い、或いは落ち着きとでも言うのだろうか。
音楽は、その年齢に合った音量がきっとある。個人差はあるだろうけれど。
僕の20代前半はとにかく音の波に溺れていたい歳だったのだ。
その感覚は今でも亡くなっては居ないのだけど、衝動的に、感情的に音楽を聴くというよりは、落ち着いて聴きたくなったのだと思う。
ライブで言えば、ステージ前でモッシュダイブして踊り狂うよりも、PA前でじっくりと観たくなった感じだろう。
今は、どちらも正しい音楽の聴き方だと思う。昔の自分は許さないだろうけど。
モノラルのBluetoothスピーカーでも良いし、なんならiPhoneの内蔵スピーカーでも良い。
音楽が変わらずそこにあることが何よりも大事で、重要。
なんでも手軽に手に入れられ、欲しい情報にすぐにアクセス出来てしまう今だからこそ、誰かが検索し辿り着いた先にあるコンテンツの質にはうるさくいたいものです。
という、夏の真ん中の駄文でありました。
皆様に於かれましては、良いお盆を過ごすことが出来たでしょうか。
昨夜長崎では、送り火である爆竹が鳴り響いていました。精霊(しょうろう)流しです。
あの爆発音。子供の頃なら喜びましたが、今ではボリュームを落として欲しいと思ってしまいました。