田端悠のススメ。
僕が初めてギターを持ったのは中学一年生の事だった。
当時、姉がCDを借りて来、カセットテープに録音された"ゆず"の「ゆずえん」というアルバムを聴いたことがキッカケであった。
ここのブログでも数回触れている気がするが、両親がフォークソング全盛期に青春を過ごした世代であり、だからフォークギターも家にあった。
気だるい休日の朝、爆音の長渕剛が目覚しの音楽になる事なんてザラだった。音楽が好きな家庭だったのだ。
そんな親を持てば子供が音楽に興味を持たないほうが異常だろう。余程親のことが嫌いなら話は別だが、僕は両親、姉の事が大好きだった。当時なら恥ずかしくてそんなことは言えなかっただろうが。
地元の、薄暗くホコリが舞っているような楽器屋に行き、10000円くらいのフォークギターを買ってもらった。セピアクルーという中国製のものだった。
学生時代のコミュニティというのは不思議なものだ。
例えば「運動が得意」ならば、自然とそういう人間が集まり、群れをなす。
同じように、「読書が好き」「漫画が好き」「音楽が好き」というコミュニティが暗に存在していた。アトラスのゲーム、ペルソナシリーズのように。
それぞれが自分の趣味趣向にある人間を選び出し、友情関係を築くのだ。
そんな中でも、「ギターが弾ける人間」というのは希少価値が高かったように思う。
男子の憧れ、ギター。男なら誰だってギターを弾きたかったのだ。そういう年頃なのだから。
そうして自然に仲良くなったのがタイトルの田端悠(たばた ゆう)である。
今現在、Podcast番組「一年一組。」にて一緒にパーソナリティを務めている人間である。
彼とはそれこそ放課後によく遊んだものだった。
彼にはお兄さんが居て、そのお兄さんもギターをやっているのでギターには困らなかった。お互いの家を行き来しては音楽の話、お笑いの話、いろんな話をした。不思議と女の子の話はあまりしなかったけど。
Podcastはそんな青春時代を自らで再現しているような場である。くだらない話で盛り上がれる仲間がいるというのは、思った以上に自分の精神衛生を整えてくれるものだと思う。聞いてくれたら嬉しい。
さて。
昨日12月13日はそんな田端悠氏の誕生日であった。
小学生の頃から彼を知っていてるけど、こうしてすっかりアラサーになってもお互いが音楽を志し、作品を発表し続ける人間になるとは。
そういうわけで、「誕生日おめでとう」という言葉のかわりに彼の曲をいくつか挙げて偉そうにレビューなんてのをしてみようと思う。
①インスタントライフ
なんとも不思議な魅力を持った楽曲だと思う。まず、全体を通して見た時のテンションの一律さ。なのに、きちんと展開があるし、聴こえる。
それはおそらく、計算され尽くしたメロディラインによって感じさせられているのだと思う。
フッと息を吹けば一瞬で消えてしまいそうなこの危うさと物悲しさ。ギター1本でこれだけ表現するのはすごい。
あと個人的には、歌い出しのメロディがすごいと思う。これをAメロに持ってくるか、と思った。
後述する「僕が僕でなくても」でもそうだが、彼は歌い出しにかなりの重きを置いてるのでは、と感じた。そこについて話したことが無いので次回のpodcastででも話したいと思う。
②みてごらん
まずは映像を観てもらいたい。
見ましたか?
見てなかったら見てから読んでください。
1コーラス目と2コーラス目の歌詞が全く同じなの事に気付いただろうか。
だけど、映像と一緒に聴くと全く違った意味に聴こえるギミック。(もちろんボーカルのアプローチも変えてはいるが)
日本語の面白いところと、音楽の"構成"という枠組みを上手く利用していて、感心してしまう。
音楽的なことを言えば、ハンバートハンバートを彷彿とさせる明るめの曲調とは裏腹な世界観のダークさがツボ。
「同じ歌詞で違う意味」という発想がまずもって素晴らしく、楽しい。
③僕が僕でなくても
歌い出しの歌詞が秀逸。一気に世界観に引き込まれる。
日常に潜む裏と表。そこで行き道を模索する。
向いてる方向は正しいのか。そもそもその"正しい"という感覚は本当に"正しい"のか。
考えて答えが出るようなものではないけれど、それでもどうしても考えてしまう。
世界と、自分とを見比べて。
物事を様々な角度から多面的に見ている独特の視点が面白い。
「愛してくれてもいいよ」と歌ったすぐ後に「愛さないで」と自分の中でシーソーゲームしてるところが好き。
曲調は非常に淡々とした三拍子のものだが、ギターの音、その一音一音が説得力を持っていて好き。
おわりに。
というわけで、今回は同郷の、僕の数少ないミュージシャン仲間のひとり、田端悠氏を紹介させて頂きました〜!
来年作品をリリースするそうなので要チェケ!(急に文体が軽いw)
あ、あと誕生日おめでとう!我々も来年30歳だぜ。どうしようか。