「セツナイ」
職場の出入り口のドアを開ける。
つい先日までの「もわっ」とした暑さはそこにはなく、どこか爽やかで湿度の低い風が僕に当たった。
台風の影響なのか、ここ数日の気温は信じられないほど下がっている。
外はついさっき日が暮れたようで、僅かな明かりが空にはまだ残っており、夏の忘れ形見のような入道雲が空に植わっていた。
肉眼では見えているが、スマートフォンのレンズにあの雲は写るのだろうかと素早くカメラアプリを立ち上げる。
画面には思ったよりもくっきりと空が写っていた。とりあえず考える事を後回しにして、数回シャッターボタンを押す。
カシャ、カシャと電子的なシャッター音が僕の半径5m程を音速で駆け抜けた。
車に乗り込み、エンジンをかける。
車はいつもと同じようにキュルルと小気味いい音を鳴らす。
カーオーディオに繋いだiPodからGotchの2ndソロアルバムが鳴り出す。
AKGとはまるで違うそのサウンドに未だに少しの戸惑いを覚えながらギアをドライブに変え、家路へとハンドルを切った。
周辺は薄暗く、対向車のヘッドライトが少し眩しい。
事故が起こりやすいのはこういう時間帯なのだと聞いたことがある。暗闇の中の光は明らかに異質なものなので注意力も働くのだが、このような明るさでは目の明るさセンサーがうまくヘッドライトと周辺の明かりとのギャップを処理出来ないのである。
もちろん、しばらく走ればそれにも慣れるのだが。
日が落ちてからの薄暗さは刹那的だ。でも、実際にその時間の中にいれば意外にも長く感じる。
数回のカーブを曲がり、数台の車とすれ違った。
空は相変わらず薄暗く、山の影をくっきりと残している。
「切ない」
ハンドルを握る僕がそう呟いた。ほとんど無意識だ。
そう口に出した途端、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
切ない。でも、なんで。
切なく憂うような事は特に無い。身の回りに悲しい出来事なんて起きていないし、ついさっきだってあれこれ話して笑っていたのだ。
でもこの感覚には身に覚えがある。一番多いのが「人肌恋しさ」だ。
しかし、今回のこれはどうもそれではない。
自分自身に問いかける。
「お腹は減ってる?」「いや、別に」
「眠いんじゃない?」「まぁ、うん」
「ムラムラしてるんじゃないの?」「ごめん、今日はそうじゃない」
とりあえず三大欲求で探っていく。しかしどれも当てはまらない。
「誰かに会いたい?」「会いたい人もいるけど、そういうわけでもない。」
「じゃあ、お酒を飲みたい?」「ううん、それも違う。」
自分自身が何故「切ない」等と呟いてしまったのか。その根本、理由が知りたい。
そうこう考えている間もその「なにか」は胸を締め付け続けていて、どんどん暗くなっていく空とリンクしているように、夜が近くなればなるほど力を増しているようだった。
そんな状態でも車の運転は問題なく出来てしまうようで、いつもの道を辿り、自宅に着く。
僕の家のすぐ前にはぽつん、とひとつ街灯が立っている。
つい数カ月前に電球がLEDに変更され、それまでより一際明るく辺りを照らすようになった街灯だ。彼は深夜だろうがお構いなしに白色の明かりを提供している。
車から降りた僕がその光の中に侵入していく。光は何事もないように、僕にも平等に光を当てる。
光を浴びた僕は、僕はただそこに入っただけなのだと知る。
その光は僕を照らしたのではない、ただそこにあり、僕がそこに歩いて来ただけなのだ。
無意識の僕に「切ない」と形容されたそれは未だに胸の中を支配している。
これを満たしてくれるものが一体"何"なのかを探るために、そしてこのまま黙っていてはこれに食い殺されてしまうような少しの恐怖に煽られ、この文章を書きだした。
少しだけ、胸を締め付ける力が弱くなった気がする。
自室という好きなモノしか置いていない空間に逃げてこられたからかも知れない。
でもきっと"それ"は今も暗闇の中で息を殺し、僕のことを伺っているのだ。
僕がすっかり油断して、脳天気にふらふらとしているところを狙うつもりなのだ。
その時、僕はどうするべきなのだろう。